文豪ゲーテはワイン好きで知られていますが、「ゲーテが日本のワイン文化に影響を与えた・・・」という奇想天外の話しをどれだけの人が信じるでしょうか?この物語を解く鍵は、約半世紀前の1960年代日本のワイン文化の揺籃期に、医化学薬品、光学製品などを輸入販売していたドイツ商社・シュミット社が、専門外の当時は水商売と見なされていたワインの輸入を始めたことにあります。
シュミット社は1668年創業の医化学薬品業界では世界最古の歴史を誇るメルク社の日本総代理店として、医薬品輸入と同時にメルク社から年に1000本を超すワインをプレゼントされ通関していたのです。しかし大量のプレゼントに不審を抱いた税関から通関を差し止められ、困った会社がワインの輸入免許をとって自ら輸入販売することになったのです。
さてここで、「ゲーテが日本のワイン文化に影響を与えた・・・」という物語の主人公ゲーテに登場して頂くことになりますが、ゲーテの年譜を見ますと、1771年ゲーテが師と仰ぐーヨハン・ゴットフリート・ヘルダーから、経営者であると同時に文化人として、同人誌「フランクフルト学術評論」を主宰するヨーハン・ハインリッヒ・メルクを紹介されています。22歳の若者ゲーテはメルクから経済的な援助を受けて1773年「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」を上梓し、翌年には新進作家としての名声を確立した「若きウェルテルの悩み」を世に問うことができたのです。
メルク社のあるダルムシュタットはヘシッシュ・ベルクシュトラーセ地域の真ん中にあり、メルク家の出身地ベンスハイムには、クロスター・エヴァーバッハ国立醸造所配下の醸造所があって、そんな環境からゲーテがメルクからワインの手ほどき受けたと考えられます。
ゲーテは「若きウェルテルの悩み」のモデルと云われる婚約者のある19歳のロッテ・ブッフに失恋し研修先のウェツラーからの返り道、立ち寄った女流流行作家・ラ・ロッシュの16歳の令嬢マクセに心を奪われるのです。このマクセが後にフランクフルトの大実業家・ブレンターノ家に嫁ぐのですが、ラインガウの別荘はワインの醸造を兼ね、そのサロンは、グリム兄弟を始め一流芸術家で客人になった経験のないのはベートーベン唯一人と云われ、頻繁に訪れたゲーテと若夫人との友情が悶着の種になったと伝えられています。
1814年65歳になったゲーテは久方ぶりに同家を訪れてドイツワイン史上最高最大のヴィンテージと云われる1811年産(アイルファー、別名彗星ワイン)を奨められて、おいおいボーイさん もっと静かに注いでくれ せっかくの十一年ものが さわぐじゃないか という有名な詩を残しています。
シュミット社はメルク社の紹介を得て、王侯貴族が賞賛してやまなかった多くの銘醸ワインを訪ね、ブレンターノ家が1949年ゲーテ生誕200年を記念して醸造を始めたゲーテワインを含め、酒の研究で文化勲章を授与された坂口謹一郎博士が絶賛してやまなかった数々の銘醸ワインの輸入に成功したのです。こうして、ゲーテ所縁のワインは文化人を始め初心者までに広く知れ渡り、日本のワイン文化に影響を与えたというのが結論ですが、皆さんどう思われますか。