ベートーヴェンワインの由来について触れた時、ベートーヴェンに比肩する名声を得て、日本でも多くのファンに愛されているシューベルトの名前が脳裏をよぎりました。
オーストリアの作曲家とドイツワインが、何らかの関係があるのではないかと脳裏をよぎったのは、モーゼル地方の五大銘醸ワインの一つに数えられていた、名門醸造家のシューベルト家のワインを愛飲していた記憶が残っていたからです。
マクシミン グリュンホイザー ヘレンベルク(Maximin Gruenhaeuser Herrenberg)のきびきびしたエレガントな酸を持ち、すぐれた、フルーティーなバランスの良いワインの醸造元・シューベルト家は、モーゼル河とルーヴァー河との合流点近郊のマクシミン・グリュンハウス町の旧領主館跡にあります。
この醸造所が初めて記録に現れたのは、十世紀半ば領主・オットー(Otto)一世が聖マクシミン修道院に宛てた証文で、今でも同家のセラーの一部に、ローマ人が敷設した導水管が残されています。エチケットは古い領主館、家紋と共に畑の景観を表現し、瓶に首ラベルを貼り、容易にクラスが判別できるように工夫されています。
畑は支流渓谷の中に位置する好条件に恵まれ、ポトリテイス・シネレア(貴腐菌)も発生することもあって、質の良い醸造家として知られています。二十年程前、水車の廻る情緒たっぷりの醸造家を兼ねたホテルに泊まった夜、たまたま、そこで開かれたルーヴァー地域の醸造家会議に出席されていたシューベルトさんにお会いし、その気品と優雅さに溢れ、如何にも貴族の末裔らしい雰囲気を漂わせていた氏に、それまでお会いしたドイツ人の誰よりも深く感銘を受けたことが脳裏にこびりついています。
さて、オーストリア生まれの天才作曲家・シューベルトと、醸造家シューベルト家の関係は、彼の年譜から父親がドイツの農民出身で、教区の教師だったことを知り、何らかの関係があるのではないかと、調べてみましたがそのルーツを突き止めることはできませんでした。
しかし、ベートーヴェンとのエピソードが残されていますので、そのことに触れておきます。二人は文政五年(1822)に初めて顔を合わせ、親子ほどの歳の差を乗り越えて、互いに相手の天分を認め、尊敬の念を持って接しながら、両者はそれ以上の親しい関係を築くことはなかったのです。その五年後、ベートーヴェンは五十七歳の生涯を閉じ、シューベルトは翌年、三十一歳でベートーヴェンの後を追うように亡くなっています。シューベルトの遺体は彼の意志からヴェーリング墓地のベートーヴェンの墓の隣に葬られ、その後、両者の遺体はウイーン中央墓地に移され、モーツァルト、ヨハン・シュトラース、ブラームス等と共に永遠の眠りについています。
最後に、歌曲の最高の作曲家と称えられるシューベルトの「子守歌」を聞かされて育った方も多いと思いますので、その歌詞の最初の一節を上げておきます。
眠れ眠れ、母の胸に 眠れ眠れ、母の手に こころよき、歌声に 結ばすや、たのし夢 (内藤濯 訳詩)