ゲーテワインを生んだブレンターノ家のサロンに唯一姿を見せなかったとされるベートーヴェンは、1792年22歳の時に音楽修行のためウイーンに移住していて、ゲーテを中心とした芸術家仲間とワインを楽しんだエピソードが残されていないのには、こんな事情があったと考えられます。しかし、モーゼルの中流トリッテンハイム付近に彼の姉の子孫が、造っているベートーヴェンの肖像と楽譜のエチケットが貼られたワインがあり、ドイツワインファンにとっては、どうしてもこの物語に登場して頂かなければなりません。
芸術家が酒を愛して傑作を生みだしたエピソードは枚挙に暇がありませんが、ベートーヴェンもまたワイン好きだったと思わせる史実が残されています。難聴に悩んだ彼はその治療のため医師に勧められた鉱泉の出る保養地として知られたウイーンの森近くのハイリゲンシュタットに居を移し、交響曲第六番「田園」の構想を得たとされるシュライバー川沿いの散歩道に近い、ホイリゲ(マイアー・アム・プハールプラッツ)に足しげく通いワインを楽しみながら曲を完成させたとされています。
ワイン醸造所を兼ねたホイリゲは食事とワインが楽しめる場所で、表通りに面した白壁の左右両翼棟の間にぶどうの枝飾りが吊るされたドアを開けると、甲州の棚つくりのぶどう園を想わせる中庭が拡がり、訪れた人は、棚の下に並べられたテーブルに運ばれてくる、料理とワインを楽しむことができるのです。
ベートーヴェンは生涯をオーストリアで過ごし、口にしたのはドイツのワイン哲学に準拠して造られるオーストリア・ワインで、シラーやヘルマン・ヘッセがフランスの赤ワインを口にしたのとは異なり、彼がドイツワインの真髄を理解し愛したと考えますが皆さんはどう思われますか。
ベートーヴェンはこの頃からシラーの詩・「歓喜に寄す」に感動して曲を付けようと思い立って構想を練りながら、30年近く経った1823年に「交響曲第九番」として合唱付きの曲を完成させ、翌年5月ウイーンのケルントナー宮廷劇場で初演され彼自身も指揮台に上がっています。
さて、ここでベートーヴェンが日本のワイン文化に今もって、影響を与えていると云われても直ぐには信じてられないと思いますが、「第九」の演奏会のエチケットが貼られたドイツワインが毎年売り出され、多くの人がその味を鑑賞しながら偉大な作曲家を偲んでいるのです。
第一次大戦後、徳島・坂東俘虜収容所でドイツ人俘虜が演奏した日本最初の「第九」を記念して「徳島ドイツ館」で毎年六月第一日曜日に行われる大演奏会に合わせて、売りだされるワインがそれで、捕虜を人道的に扱うことを決めた「ハーグ条約」を忠実に守った坂東俘虜収容所所長・松江豊壽大佐の「彼等も祖国のために戦った文明国の軍人だから侮蔑的な態度はとってはならない、大国民の襟度を疑われかねないような挙動は慎むように・・・」(松江美枝子女史より)と、自らも文明国の武人の誇りを持って捕虜に接したことから、今でも両国間の親善が続きその一端をベートーヴェン所縁のワインが担っているのです。