昨今、宮中行事の一部始終が記事になることは少なくなりましたが、昭和54年(1979)、東京で開かれたサミットに参加した先進国7ヶ国の首脳等を招待した、天皇陛下主催の晩餐会における、首脳の席順、出された飲物、演奏された音楽などの宮中行事の一端と、参加国のお国柄などを、窺い知ることが出来る興味深い記事を、当時の朝日新聞は次のように載せています。
『出席者は53人、席次は上席から元首、その他の首脳は在任期間の長い順、閣僚は国名のABC順、駐日大使は着任の古い順と定められ、豊明殿に導かれた招待客は、青いラン、ピンクのバラに彩られた、細長いメーンテーブルに導かれ、着席された天皇陛下の右隣に仏大統領、常陸宮殿下を挟んで英首相、天皇陛下の左隣の皇太子妃殿下を挟んで西独首相、高松宮殿下を挟んで大平首相、天皇陛下の正面席の皇太子殿下の右隣に米大統領、秩父宮妃殿下を挟んで加首相、左隣の常陸宮妃殿下を挟んで伊首相が着席した。
宴会は日本酒、赤・白ワイン、シャンパン、シェリー、ジン・トニック、ベルモット、カナデアン・ウイスキー、コニャック、スコッチ・ウイスキー、バーボン・ウイスキー、リキュールが提供され、宮内庁楽部のオーケストラによる音楽は、ビゼーの「アルルの女」(仏)、ブラームスの「ワルツ」(独)、マスカーニの「ガバレリア・ルスチカーナ」(伊)、バーゼルの組曲」(英)、アンダーソンの「シンコパイテック・クロック」(米)、「還城楽」(日)に加え、クライマックスはメドレーで演奏された、「ひばり」(加)、「アヴィニヨンの橋の上で」(仏)、「ローレライ」(独)、「フニクリ・フニクラ」(伊)、「浜辺の歌」(日)、グリーン。スリーブ(英)、ケンタッキーの我が家」(米)と、それぞれの国に相応しい歌曲が選ばれた』
これらの飲物、音楽のいずれも、日本人には馴染み深いもので、同時に各国首脳に対する、心使いがみてとれる素晴らしいものだったのです。
特に、ミッテル・ライン地域の葡萄畑の中を走る、ライン下りの船内の日本語で流される「ローレライ」の『なじかは知らねど心わびて 昔のつたへはそぞろ身に沁む さびしく暮れゆくラインの流れ いりひに山々あかくはゆる』の抒情と、、「浜辺の歌」の『あした浜辺をさまよえば 昔のことぞ忍ばれる 風の音よ雲のさまよ 寄する波も貝の色も』の抒情を重ね合わせる時、日本とドイツの深い絆が見て取れるのです。
「ローレライ」は、不実な恋人に絶望した少女・ローレライがライン川に身を投じ、水の精となった彼女の声に魅せられた、船員の舟が次々と難破したという、云い伝えを悼んだハインリッヒ・ハイネ(1797〜1856)が作詩し、フリードリッヒ・ジルヒャー(1789〜1860)が曲を付け、これを近藤朔風(1880〜1915)が和訳しています。近藤朔風は東京外国語学校ドイツ語科、東京音楽校専科で学び、35歳の若さで夭折した訳詞家で、外にも「野ばら」、「久しき昔」、シューベルトの菩提樹、海の静寂、終焉、シューマンの「花乙女」など多くのドイツ歌曲の訳詞を発表し、草創期の日本楽壇のために多くの名訳を残したのです。
一方、林 古渓(1875〜1947)作詞、成田為三(1893〜1945)作曲「浜辺の歌」の、恋人に去られた男の孤独と哀愁を想わせる詩の抒情性が、ハイネの抒情性の影響を受けたのではないかということは置くとして、文学や音楽にとって、民族、歴史、文化、国の違いなど、関係のないことを感じるのです。