明治初期に提唱された殖産興業政策を主導し、日本のワイン産業の先駆者とされる維新の元勲・大久保利通の資料を繙いていた折も折、目に飛び込んできたのが、NHKの大河ドラマ「西郷(せご)どん」の最終回の場面だったのです。
明治維新の立役者・西郷隆盛は、王政復古を成し遂げながら、政府の方針に反旗をひるがえし、明治十年(1877)の西南戦争で銃弾を受け自刃し、これを知った大久保が号泣しながら「吉之助、吉之助、吉之助!」と叫び、自身も翌年紀尾井坂で刺客に襲われ「未だ未だ、未だ未だ・・・」と口走りながら息を引き取る壮絶な画面だったのです。
大久保がその日の朝、福島県令・山吉盛典に対し「過去十年は戦乱の時代だった、これからの十年は内治を整え、その後の十年は民産などの建設の時代にしたい、その時まで内務の職に尽しその後は賢者に譲りたい・・」と語ったとされるだけに「未だやり残したことがあるのに残念・・・」と、四十九歳で夢を絶たれる無念を訴える姿が映しだされたのです。
文明開化を合言葉に日本の殖産興業の発端となったのは、明治四年(1871)アメリカを始めヨーロッパ諸国に、二年に及んだ岩倉具視を大使とする「岩倉使節団」に副使として同行した大久保が、帰国後大蔵卿を辞して、新たに設置された地方行政を取り仕切る.内務卿に就任し、明治八年(1875)殖産興業政策として「本省事業ノ目的ヲ定ムルノ議」として『一、樹芸、牧畜、農工商ノ奨励、二、山林保存、樹木栽培、三、地方取締ノ整備、四、海運の道ヲ開クコト』を内容とする起案書を閣議に提出し、その中で『樹芸』『樹木栽培』という新しい産業を提起したことだったのです。
この起案書の頭書に登場した『樹芸』を、広辞苑では「森林を形成させずに、個々の樹木を育てる技術・学問。その対象は工芸の原料や実を採取する樹種ミツマタ・クルミ・クリ・ギンナンなど」と定義し、これからは葡萄との関連は感じられないですが、それまで穀菜と果樹を一括取り締まっていた『種芸』から『樹芸』を独立させ、同時に『樹木栽培』を提案し自ら葡萄苗木を外国から取り寄せたりしている卿の脳裏には、葡萄栽培とワイン醸造の青写真が焼き付けられていたと思われるのです。
岩倉使節団に参加した卿が、欧米に開花した政治、経済、科学、教育、文化などを、直に見聞きし国情を比較体験する中で、アメリカ・カリフォルニア郊外に拡がる広大な葡萄畑、フランス、イタリア、ドイツなどの山野を覆い尽くす葡萄畑、特にドイツの急こう配の葡萄畑に日本の山野を重ね合わせ、ワイン醸造こそ地方の殖産興業に打ってつけの新しい産業だと信じたと考えられ、その先進性を評価した研究者がワインの先駆者として歴史に留めたと思われるのです。
卿は志半ばで暗殺の刃に斃れたが、若し生き永らえて政策を遂行していたら、日本のワイン産業はもっと早く花開いたと思われ、古今東西を通じて先駆者の宿命ともいうべき悲劇に襲われ、その後、卿の意志を実現しようと若者達がワインの先進国に醸造技術を求めて留学し、日本各地にワイン醸造の気運が高まっていったのです。
卿が『ワインは自然からの恵みの、最高の芸術品』と信じ、『樹芸』を明治の殖産興業のトップに提案したことからも、卿が政治家、実業家で偉大な先駆者だっただけでなく芸術を愛する文化人だったと思うのです。